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最近買ったおすすめ書籍『絵本ずかん』をご紹介~!
読み聞かせの時間がちょっと特別に感じられる、絵本選びに最高の本。名作絵本200冊のあらすじと、読んだ人の声がぎゅっと詰まっています。ページをめくるたびに「この絵本も好きだったな…」「この絵本、子どもたちに読んであげたい!」って発見がいっぱいある一冊です。
わたしが保育士1年目のころ、4歳児クラスの担任になりました。
当時は日中の活動の一つも、まとめることがすごく難しかったんです。
朝の会の時間になった。
わたしが「朝の会するよ~」って声をかける。
すると、子どもたちは自分で遊びを終わっておもちゃを片付けて、いつもの場所に座り始めます。
でも…まだまだ遊びたい子は、なかなか片付けもせず、盛り上がって遊んでる。
わたしのこえなんて届かない。
いつもは副担任のベテランの先生がいて、朝の会はすんなり始まるんだけど、この日はその先生は遅番。
フォローはないし、自分で進めなきゃいけない。
朝の会をしなきゃいけないのに…
先にお片づけを終え、ずっと静かに座っている子たちは、ずっと待ってる。
そんな状況でもわたしは諦めずに、まだ遊びたい子に向かって届かない声をかけ続ける。
その間にも、どんどん時間はすぎていって…
そこに主任の先生が通りかかって、その様子を見たわたしにかけた言葉は、
主任「待ってる子がかわいそう!手遊びの一つでもしてあげてください!」
この発言が、わたしのなかで気づきのきっかけになった原点なんです。
この時、どうすればよかったのか。
この回答は、記事の最後に書くね。
「子どもを尊重する」ってよく言われる言葉。
だけど、そこにどれくらい深く意識を向けられているだろう?
子どもの時間は、大切な「資源」。
その瞬間、その子が見て、感じて、考えて、動こうとするためのかけがえのない材料。
それなのに、大人の都合・活動の都合で座らせて、
ただ「静かに待たせる時間」が、保育の中には驚くほど多い。
その時間に意味があるかどうかを考えている先生って、実はすごく少ない。
その結果、子どもたちの大切な資源は、ただ「指示を待つための時間」として消えていくだけ。



わたしたち大人にとっての5分と、子どもにとっての5分は、同じ重さじゃありません。
たった5分…それは、大人は長い人生の中では、ほんの一瞬。
けれど子どもにとっての5分は、生きてきた時間の中で占める割合が圧倒的に大きい。
だから同じ5分でも、子どもにとってはずっと「密度の高い時間」になる。
大人よりもずっと尊い時間になる。
静かに待たせた5分、ただ座らせた5分。
それは、子どもの世界では「かけがえのない5分」を削っているのと同じなんです。
保育園や幼稚園って、デイリープログラム、日々の活動があるよね。
集団生活の中で、次の活動に移りたいと思っても…
なかなか遊びを切り替えられない子もいる。
で、そこに対応しようと思うと大人の手が必要になる。
時には、先生の数が足りなくて、そっちにつきっきりになることも。
でもね、その裏側で何が起きているか。
「いい子」と呼ばれる子は、もう先に手を洗って、
椅子を出して座って、何もせずに静かに待っている。
一見、すごくいい姿に見える。
でもその時間は、本当にその子の育ちにつながっているの?
本当は続けたかった遊びがあったかもしれない。
観察したかったものがあったかもしれない。
身体を動かしたかった気持ちがあったかもしれない。
それなのに「静かにしていたからえらいね」と褒められて終わる。
それって、なんか違うなって思った。
ただ大人が扱いやすいだけで「いい子認定」されて…未来のその子は「指示待ちの子」になっていく。
静かに待てたかどうかより、その子にとっての「貴重な時間」を奪ってしまっていないか。
大人の都合で待たせた時間って、本当は…
…こんな経験ができる機会を、奪っていたのかも。
大人の都合でその宝物の時間を奪って、じっと座らせて静かにさせて、「静かに待てたからいい子」で片づけてしまうのは、やっぱり不自然。
その時間は本当にその子にとって良いものだったのか。
わたしたち保育士のたった一つの行動で「無意味な待ち時間」に変えてしまっていないか。
そこに意識を向けられるかどうかが、わたしたちが本当に「子どもを尊重しているか」の分岐点なんだと思う。
静かに座っている姿を「いい子」と呼ぶことは、その子の本当の気持ちを見落としているのかもしれない。
その「何もしていない時間」の裏側には、
本当はやってみたかったこと、続けたかった遊び、
もっと動きたかったって気持ちが隠れていることもある。
「座って待つ時間を過ごす」こと自体は悪くない。
でも、その時間の中身をどう扱うのかは、大人の姿勢しだい。
子どもの時間を「ただの待ち時間」にしないために、大人ができることもきっとある。
わたしが具体例を示してもいいけど…これを考えることが保育士の仕事。
そしてこの方法論を考えていくことが、子どもを尊重することなんだと思う。



わたしは、座って静かに待っている子どもたちの姿を見ると「暇させてごめん!」って思っちゃう。
そして「今、目の前の子どもたちが暇しない、有意義な時間にするにはどうすればいいか?」ということを考え、最短で実行することを考えています。
子どもを尊重する、という言葉だけがひとり歩きすると、
「目線を合わせて話すこと」「やさしい声で声かけすること」
みたいな、小手先の技術にとどまってしまう。
もちろん、それも大切。
でも、それだけじゃ足りない。
尊重とは、子どもを「子ども扱い」しないこと。
一人の人として、対等に扱うこと・向き合うこと。
対等であるなら、その子の「時間」も、ちゃんとその子自身のもの。



その時間は、子どもにとっての大切な「資源」。
保育士の立場であれば、子どもの「資源」を無為に消費するのは造作もないことです。
どんな時間に設計してあげられるかは…大人次第なんですね。
そこを無視しないで見ようとすること。
その深さにまで想像を伸ばせること。
それこそが、本当の意味での「尊重」なんだと思う。
朝の会を始めたいのに、なかなか遊びが終われない子に声をかけ続けていたあの場面。
先に座って待っている子たちは、ずっと静かに、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
その時に主任の先生がかけてくれた、



「待ってる子がかわいそう!手遊びの一つでもしてあげてください!」
その一言で、わたしは「遊ぶ子」ではなく「待つ子」の時間に気づいた。
あの時に理解したのは…
活動・遊びを切り替えられない子は悪くない。
それは、その子が自分の意思で選んだ「大切な資源(時間)」の使い方。
この意思は尊重する必要がある。
でも 静かに待っている子の 「大切な資源(時間)」 はどんどん消えていく。
しかも、その時間を奪っていたのは、他でもないわたし自身の保育・わたしの関わり。
保育士には、子どもの時間を動かすだけの力がある。
「無意味な待機時間」にするのも「楽しい有意義な時間」にするのも、自分次第。
それに気づいたのが、この瞬間だった。
ここで見落としていたのは、クラスをひとつの集合として見たときに必要なこと。
「みんなにとっていい時間=資源が無為に消えていかない環境」をどう作り出すか。
これは「大人が進めたいから始める」ではなく、子ども自身が「入りたい」「参加したい」と思える時間をつくることでしか実現しない。
強制しても、叱っても、引っぱってきても、それは“大人に従わせただけ”であって、主体性も尊重も育たない。
じゃあどうすればいいのか。
答えはとてもシンプルで、参加したくなるほど魅力的な導入をつくること。
手遊びでも、歌でも、仕掛けでも、先生がちょっとおもしろそうなことをしているだけでもいい。
そんな時間を提示できれば、子どもは自分の意思で集まってくる。
これは 大人のコントロールではなく、子どもの選択を引き出す保育。



子どもは悪くない。
単純に「わたしの保育が面白くない」のが悪かっただけ。
強制された参加ではなく、「やりたいから行く」「楽しそうだから入る」。
その経験を積み重ねることが、子どもにとっての主体性であり、わたしたちが目指すべき尊重だと思う。
大人の都合で動かすのではなく、子どもたちが自分の意志で動けるように場を整える。
そのために保育者ができることは、「参加したくなるほどいい時間」をつくること。
わたしがあの時主任の先生の一言から得たのは、
子どもの時間は、大人の関わりひとつで奪われもするし、
豊かにもなるという事実だった。


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